ハンガリーワインの歴史

ハンガリー各地で行われた発掘調査により、ハンガリーワインの歴史は古代ローマ時代に遡ると言われています。この時代の遺跡からブドウ栽培に関連する遺物、たとえば、ブドウの種子やブドウ酒の容器とされるアンフォラ(陶器の壺)が発見されており、これらはローマ時代のブドウ栽培とワイン生産を示すものと言われています。

ローマの歴史家であるタキトゥス(55120年頃)は、ハンガリー地域で栽培される優れたブドウとワインについて言及しており、プリニウス(2379年頃)の著書『博物誌』にもハンガリー地域のブドウ栽培について触れられています。

896年マジャール人(ハンガリー民族)の侵攻の際は、ハンガリー王朝の創始者であるアルパードがトカイ産のワインを従者に褒美として与えています。マジャール人は扱いにくい騎馬民族でしたが、9世紀に西欧やビザンティウムに33回もの軍事侵攻を行い、ワイン醸造の優れた技術も持ち込みました。

 12~13世紀には、ドイツ、フランス、イタリアからの入植者たちによって、多くの地域で醸造技術の向上が図られ、ハンガリーワインは王室や貴族の間で高く評価されていました。15世紀には、ハンガリー王国の宮廷でもハンガリアンワインが愛飲されていました。

16世紀にオスマントルコがハンガリー南部に侵攻すると、人々はブドウ畑を離れ、ワイン産業は低迷しましたが、このとき占領されていない北部、特にショプロンとトカイはワイン造りの主要な拠点となりました。カダルカなど、新しいブドウ品種が導入されたのもこの頃です。

ハンガリーワイン、とりわけトカイワインの名声を高めた逸話があります。トランシルヴァニア公国の王子であったラコーツィ・フェレンツ2世(16761735)は、太陽王と呼ばれていたルイ14世にトカイのワインを贈り、保護を求めました。ルイ14世は「ワインの王にして王のワイン」とこの特別なワインに魅了され、ラコーツィを助け、自身の宮廷にトカイワインを導入しました。

また、トカイワインはヨーロッパの宮廷社会の華やかさの象徴として、教皇ピウス4世、ブドウ畑を購入したピョートル大帝、ポンパドゥール公爵婦人、ヴォルテール、ベートーベン、シューベルト、ハイドン...ヨーロッパ中のさまざまな人物に魅了されました。1529年からハンガリーを支配してきたハプスブルク家もその名声に一役買い、一族は祭典の際にはハンガリーのワインを楽しみました。 

その人気にあやかろうと、他国でトカイの名前を騙るワインが造られ混乱が生じました。1737年、国王令により世界で初めてブドウ畑の格付けが行われ、1757年には原産地呼称が制定され、トカイワインはトカイ地方以外では造れないようになりました。

 当時トカイワインはもちろんのこと、ハンガリーワインは世界的に高く評価され、フランス、イタリアに次ぐ世界第3位の生産国となりました。

しかし19世紀には、ヨーロッパで猛威をふるったフィロキセラ(害虫)被害により、ブドウ生産量は激減しました。

そして第二次世界大戦で敗戦国となったハンガリーはソビエトの支配下となりました。ブドウ畑の国営化が進められ、ワインはソ連に送るために「質より量」を求められました。

 多くの苦難を乗り越え、1989年ハンガリー共和国(現ハンガリー)の成立により、伝統的なワイン醸造やワイン法が復活することとなりました。

同時に民主化による市場開放で海外からの投資が増え、技術革新による近代的なワイン造りが広まり、飛躍的にハンガリーワインの品質が向上しました。家族経営、個人経営のワイナリーも出現し、土着品種を生き返らせ、伝統を守りつつも最新技術を導入し、テロワール(土壌・気候・造り手)を生かしたワイン造りが始まりました。

 現在、ハンガリーは多様な22のワイン産地を持ち、国内外で高い評価を受けています。ハンガリーのワインは、独自の品種や生産方法、風味を持っており、ワイン愛好家にとってとても興味深いものとなっています。